太鼓楼

  • 太鼓楼

名称 西教寺太鼓楼
所在地 大阪府和泉市幸二-二五〇
年代 昭和三七年
登録基準 一 国土の歴史的景観に寄与しているもの
特徴・評価 境内北東隅に建つ二階建の太鼓楼。木造モルタル塗、入母屋造本瓦葺で、一階西面を出入口とし、二階は四面に黒枠の火灯窓を穿ち、アクセントとする。外壁漆喰塗で二階に長押を表し、軒は板軒状に仕上げる。角地にあって真宗寺院の伽藍景観を特徴付ける太鼓楼。
備考 建立年代は寺蔵文書による。
登録有形文化財登録証 PDF

 境内の東北隅に位置する層塔型の太鼓楼である。この太鼓楼は、昭和37(1962)年に再建されたものである(註1)。旧太鼓楼は明治後期の境内整備において、大門等とともに建てられたと見られるが(註2)、昭和36年9月16日に上陸した第2室戸台風によって大きな被害を受けた。しかし本寺にとって葬儀・儀礼時の太鼓は不可欠であったことから、翌年に急ぎ建て替えられたのが現太鼓楼である。現太鼓楼は、基壇外縁より約20cm内側に建つことから、何らかの事情で平面規模がわずかに小さくなっていることが伺え、また旧太鼓楼にあった下層の腰板が省略されているとのことであるが、他は旧規を守って再建されたという。
 さて、現太鼓楼は、入母屋造本瓦葺の重層建築で、花崗岩切石1段の上に凝灰石葛石を回した低平な基壇の上に建つ。
 下層の規模は約2間(12.5尺)四方である。モルタル壁の大壁とし、西壁中央に片引戸の戸口を設ける以外、窓等の開口はない。戸口の外には石段3段を置く。内部は一室で、土間とする。上層に登る施設として、天井の中央南側に開口を設け、上層に登るための鉄製階段を設置している。ただし、この開口部は修復の手が入っており、鉄製階段も意匠的にそぐわず、仮設的な趣が強い。元は登り梯子であったものを、開口部を広げ、鉄製階段を設置したのではないかと思われる。
 上層の規模は1間半(9尺)四方である。下層同様に大壁とするが、外壁は漆喰仕上げである。各面中央に花頭窓を設け、内側には引分戸を付ける。天井より吊り金具をのばし、太鼓を吊る。太鼓は旧太鼓楼以来使用されているもので、ケヤキ胴の胴長耳無太鼓である(註3)。
 この太鼓楼には組物はない。軒裏は塗込めとしており、垂木の有無は不明であるが、板軒の可能性もある。屋根は大棟、隅棟、降棟とも組棟であり、軒端には獅子口を据える。なお有力寺院の太鼓楼では上層入母屋屋根の妻側を境内正面に向けるものが多いが、本寺の場合は平側を向いている(註4)。
 このように、本太鼓楼は大壁造で、組物もなく、意匠的には非常にシンプルである。しかも真宗有力寺院の層塔型太鼓楼の多くが下層四間四方、上層二間四方と規模が大きく、また下層の辺長が上層の辺長の2倍あるため安定感があるのに対し、本寺の太鼓楼は上層と下層の規模の差が小さいため、細身に見える。しかし、これは限られた境内において、正面表側に大門、東門、鐘楼、太鼓楼の4棟を建築し、かつ大門を本堂正面に配置することを優先した結果であろう。
 府内の真宗一般末寺において、このような太鼓楼を備える事例は非常に少なく、明治後期に本寺の境内整備をおこない、本格的な真宗伽藍を整えようとした本寺及び檀家の苦心が伺える。現太鼓楼は、年代こそ新しいが旧規を守って建設されており、本寺の格式ある伽藍の重要な構成要素として、また地域の歴史的な景観にとって欠かせない建造物として保存の措置が図られるものであると評価できる。
 以上の点から、太鼓楼は「登録基準(一)国土の歴史的景観に寄与しているもの」に相当すると考えられる。

註1  現太鼓楼の建築年代は、寺に残る「金銭出納簿」の昭和37年5月分の記録に「壱阡百十円 太鼓楼棟上心附」、同年8月16日の記録に、「壱萬三阡八百壱円 大(ママ)鼓楼仕上がり法式料」とあることから、昭和37年代であることが確認できる。
註2  旧太鼓楼の建築年代として、文化7年に表門、庫裡とともに太鼓楼等が新築されたという見解がある(盛田嘉徳ほか『ある被差別部落の歴史―和泉国南王子村』岩波新書)。これが正しいとすると、太鼓楼の創建は文化7年に遡ることになる。しかし、この記述は、出典が明らかでないなど、多くの疑問がある。江戸時代、太鼓楼は二階建ての楼閣であるから、原則として、一般末寺では禁じられたもので、概ね、太鼓楼は本山や御坊などの有力寺院に限られている。しかも当寺では文化5年前後に莫大な費用をかけて本堂を再建しており、続いて表門・庫裏・太鼓楼を造営する資力があったとは考えにくい。従って、文化7年に造営されたのではなく、その計画があったと解しておきたい。結局、当寺の場合、明治後期に境内諸建築の造営が相次いでいることから、大門、東門、鐘楼と前後する頃に建築されたとみるのが妥当であろう。
註3  太鼓の胴縁の皮上には「昭和二拾六年参月泉北郡八坂町治郎右門之オナツ事上田キシ寄贈張替」との墨書があり、旧太鼓楼で使用されてきた太鼓であることが確認できる。なお泉北郡八坂町は当地の旧町名である。
註4  大阪府内において、太鼓楼上層の入母屋屋根の平側を境内正面に向ける事例としては、出口光善寺(出口御坊/枚方市)、茨木別院(茨木市)がある。
(所見記入者 大阪府教育委員会文化財保護課 総括主査 地村邦夫)