北門

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名称 西教寺北門
所在地 大阪府和泉市幸二-二五〇
年代 昭和前期
登録基準 一 国土の歴史的景観に寄与しているもの
特徴・評価 境内北辺東寄り、太鼓楼と経蔵の間に建つ一間薬医門で、間口二.一メートル、切妻造本瓦葺である。五平の本柱の頂部に冠木を渡し、矩形の梁を三筋架け、鼻先の桁で垂木を受ける。太鼓楼や経蔵、本堂の屋根とともに、境内北側の街路景観を整える。
備考
登録有形文化財登録証 PDF

 北門は、境内北側を通る路地に面して設けられた通用門で、太鼓楼の西隣に位置する。門の形式は一間薬医門で、屋根は切妻造、本瓦葺である。
 本柱に見付6寸の五平の角柱を建て、控柱には4寸角の角柱を用いる。本柱、控柱とも面取はない。本柱間には冠木を渡し、その上に腕木を配して桁を受ける。腕木は柱上だけでなく、柱間中央にも配する。腕木上には約3寸5分角の棟束を立て、棟木を支える。
 軒は一軒疎垂木で、垂木材は直垂木である。破風板は眉欠を施し、反り破風としているが、屋根面に軒反り・屋根垂みはほとんどつけていない。破風の拝みには蕪懸魚を吊るす。
 大棟は熨斗棟である。注意されるのは表側と裏側で組み方が異なっていることで、表側は熨斗瓦を7段積んだ積棟だが、裏側は花巴練込瓦を積んだ組棟となっている。表側の熨斗瓦のうち、割熨斗の並びが明らかに乱れていることから、後世の修理で表側を熨斗瓦積に改変したものと推測される。大棟の最上部は雁振瓦(丸桟伏間瓦)を置き、両端には宝珠付跨鬼瓦を配する。
 門扉は縦板張りで、これを肘壺で吊り、背面に閂を付ける。金物はほとんど使わず、装飾的要素が少ないが、肘壺の湖底に、桜花座の付く四葉金物を用いている。
 この北門を、境内正面に並び建つ大門、東門と比較すると、(1)規模が小さい、(2)本柱、控柱ともに面取が施されていない、(3)男梁・女梁を用いず冠木を本柱上に直接載せる、(4)組物を用いない、(5)棟束には蓑束でなく単純な角柱を用いる、(6)屋根面に降棟を付けない、(7)戸板をはじめとする主要部材にケヤキ材を用いていない、などの違いがある。これらは表門と通用門との差であろう。しかしその一方で、通常は柱上のみとされがちな腕木が柱間にも置かれていることや、大棟を組棟としている点は、大門、東門と共通している。
 北門の正確な建築年代は不明であるが、年代を考える手がかりが3つある。第1は北門が、境内北辺の築地塀を切って建設されていることである。この築地塀は、もとは本堂から旧太鼓楼まで伸びていたと考えられることから、少なくとも旧太鼓楼が建設された明治後期の段階に、北門はなかったと推測できる。第2は大正11(1922)年に刊行された『大阪府全志』の西教寺の頃に北門の記述がないことである。(註1)。これは北門の年代が大正末期以降まで下がることを示唆している。第3に現住職(昭和25年生)の父君である先代住職の時代には北門が存在していたことである。これらを勘案すると、北門の建築年代は昭和前期と考えるのが妥当であろう。
 北門は、近年の建築である門徒会館や経蔵脇の倉庫を除いて、西教寺の境内で最も新しい建築である。すなわち西教寺における近代の境内整備は、北門の建築をもって完成したと言い換えることができる。北門は通用門として、表門である大門、東門より小規模かつ簡素な建築ではあるが、その構造・意匠は両門と共通する部分が認められ、境内北辺の路地に面した西教寺の歴史的景観の重要な構成要素となっている。境内諸堂宇とともに、一体として保存すべき建造物であると評価することができよう。
 以上の点から、北門は、「登録基準(一)国土の歴史的景観に寄与しているもの」に相当するものと考えられる。
註1  『大阪府全志』は、井上正雄が明治末期より調査・編纂し、大正11年に刊行した地誌である。西教寺の項の全文は下記のとおりである。
「西教寺は字十六の坪にある、阿耨山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。寛文十年の創立、僧阿耨の開基なり。境内は参百七拾壹坪を有し、本堂・庫裏・座敷・玄関・茶所・太鼓楼・土蔵・表門・裏門を存す」
(所見記入者 大阪府教育委員会文化財保護課 統括主査 地村邦夫)